名古屋大学読書サークル

サークルメンバーがゆるりと記事を書くスペースです

”物語を読む”とはどんな行為なのか(前編)

Life is a tragedy when seen in close-up, but a comedy in long-shot.

Charles Chaplin(1889~1977)

(人生は近くで見れば悲劇であるが、遠くから見れば喜劇である。)

 

こんにちは。物語を読む、俗に読書という行為がある。おそらくほぼ全ての方に経験があるだろう。読書という行為は一体何なのであろうか。それについて個人的な見解を述べる試みである。読書の楽しみ方という観点では別記事を書いているのでそちらを参照いただきたい。*1

meidaidokusyo.hatenablog.com

meidaidokusyo.hatenablog.com

実は今回の記事は、同系統の第三弾ということになる。前編の内容は「なぜ読書をするのか」の読み方3に近いため、併せてそちらを読んでいただけると理解が容易いであろう。

記事に入る前に先に断っておくが、本稿は断定的で、読者の反感(正確には事実への拒絶感)を感じさせるかもしれないがご了承いただきたい。

 

前置きが長くなったが、さっそく本論に入っていこう。

本を読むということは、登場人物の人格を味わう、或いは絶対神としてそこにたたずむことである。

人によって差異はあると思うがこのどちらかであると思う。まず、前者についてなのだが、登場人物に感情移入するのが得意な人に向けた言葉である。あなたは主人公がなぜ楽しんでいるのか、なぜ苦しんでいるのか、自分ではない別人格の感情を、感情だけでなく生い立ちから性格まで十分に思考を巡らせた上で、存分に味わっているのである。当事者ではない、フィクションだということを分かりながらも、いや、ときにはそれすらも忘れて、創られた人格に浸っているのである。

後者は感情移入が苦手な人に向けたものである。登場人物がなぜそんな感情を抱いているか分からない(理解できないわけではないが、実感できない)。しかしそこに確実に物語は紡がれていて、人間たちの関わりをそこには存在しない(よって直接的な苦しみ等も味わわない)完全に独立した第三者の視点から見ているのである。そして、物語の進む速さはあなたのページをめくる手で決まる。

物語の筋書きを決める神は作者だ。しかし、読み手もまた神だ。読み手という神は能力には乏しいが、登場人物を管理する力(読む速さや、途中で中断すること)を持っている。また、その気になれば未来予知(結末を確認する)もできる。

 

結局は誰も登場人物に乗り移ることなどできなくて小説という架空の世界にいる人物を愉しんでいるだけなのだ。

さて、今までの流れで、なぜ私が冒頭の引用をしたのかおわかりいただけただろうか。あの言葉は読書の本質に通じる。物事を一番近い距離で感じられるのは当事者しかいない。つまり悲劇は当事者にしか起こりえない。”フィクション”というフィルタがあって、紙の向こう側とこっち側という距離を隔てた関係では物語を悲劇として見ることは叶わない。たとえ向こうでは悲劇だったとしても、我々はそれを少なからず喜劇として愉しんでいるのだ

もちろん読み手が神であるのならば、物語との距離感も読み手の気分によって変えられるわけであって、ある人が悲劇に近い喜劇として読んで、「感動した」と感想を残しても、悲劇から距離を置いた喜劇として読んだ人にはその感想が理解できないのである。

また、感情移入が得意な人は悲劇に近い喜劇で、苦手な人はそれよりは喜劇よりで読んでいる気がする。ただ、どんな物語も読者を介すると喜劇性(後述)が入ってしまうのだ。

 

ここまで読んで、感動的な話で喜劇(滑稽で笑えるようなシーン)はないと反感を覚える方がいるかもしれない。私自身も帯分に「絶対に泣ける」とか書かれるような本を完全な喜劇だと思ったことはない。そこで、最後に喜劇の捉え方について考えよう。

喜劇とは滑稽で笑わせることを目的とした劇(ここでは物語)のことであるが、喜劇の娯楽性や、一時性(少し時間がたてば忘れる)、自己関係性の欠落(自分とは無関係な世界だから笑える)に着目して、喜劇性という言葉を提起する。

小説には喜劇性が存在する。読書が娯楽であるという点は無条件に受け入れていただきたいが、よっぽど読み返している本でなければ、読了して、もしくは挫折してしばらくすれば細部の内容なんて抜け落ちてしまう。自己関係性の欠落は、無関係だから笑えるとまではいかなくても、小説の中で起きた出来事が紙面を飛び出して直接波及してこないのは自明である。

さらに、中村文則さんのR帝国(p352)から引用させてもらう。

人間が欲しいのは、真実ではなく半径5メートルの幸福なのだ。

書籍自体は物理的に半径5メートルに入るかもしれないが(それも読書するときに限った話だ)、紙面の向こう、バーチャルな世界は半径5メートルには入り得ない。それに、この言葉を比喩的に精神領域でも解釈するのなら、気分次第で閉じて物語り世界から距離を置ける状態は、半径5メートル以内と言い難い。読むのがつらくなれば簡単に距離を置ける。(というよりこの状態では既に距離があるといえるだろう)。我々は物語に対して、自分の幸福が侵されると判断すれば容易に距離感を調節できる神的立場である。そして物語の咀嚼には喜劇性を含むのである。

少し焦点を変えると、テレビなどで放送される戦争や災害に当事者意識が持てるだろうか。熱烈な関心が持てるだろうか。画面の先の、その画面すら一存で消してしまえる世界に。

 

理解していただけただろうか。

読書とは自分を神格化させ、喜劇性を持って、登場人物の人格を愉しむ行為なのである。

後編では別の切り口から読書を見ていきたいと思う。それでは後編で会おう。

 

後編が執筆できたので追記する。*2

meidaidokusyo.hatenablog.com

文責:イシ

*1:この記事は物語にあてはまる特徴であるので知識本等は省いて考えている

*2:2023年12月2日

ハンチバック:他人が課題本に設定した本のレビューを勝手に書く

こんにちは。1ヶ月ぶりの投稿になります、イシです。今回はサークルの紹介をしつつ、明日(2023/11/10)の課題本であるハンチバックの書評をしたいと思います。

サークルの話は聞き飽きたよーって方は目次からスキップしてください。

サークル紹介

当サークルでは、現在は読書会を中心に活動しています。読書会は毎回、司会という役を持ち回りでやってもらっていて、司会の人が課題本やトークテーマを決めて、当日も必ず来てもらっています。(逆に言うと司会以外の人の参加はフリーです。たくさん人がいる回ほど盛り上がるのですが。)。課題本の回は話すテーマとなるお題が添えられるのですが、まだ明日のお題は発表されていないので、どんな内容になるんだろうと考えながら執筆しています。

元々はオンライン読書会も行っていたのですが、コロナが下火になっている?影響か、オンラインでの参加希望者がいなくなったので廃止しています。需要があればまた復活させたいなと思っています。

それ以外にも月に一度ほどイベントを開催したり、細々とブログを書いたりしています。(最近スケジュールが過密すぎて企画、執筆が滞ってますが)。ちなみにブログ書きたい人も募集中です。

ハンチバック

今年の芥川賞受賞作ですね。今回はくろやさんが選出した本なのですが、イシが勝手に感想を書きます。(ちなみに許可は取ってません)。まあ、長い付き合いなんで許してくれるでしょう。

 

いろいろと書評でも見たのですが、問題作でしたね。一番刺さった部分は(多分本質とは違うけれども)身体障害が故に本を読むことが困難であると言う点です。つまり言い換えるならば、この本を読んでいる時点で、主人公の苦しみは理解することができないということです。

本を読むことを生活の一部にしながらも、本を読むことに難が伴うという状況はなかなかに過酷です。

と語るのも、かくいう自分も精神障害双極性障害)を患っているので、鬱の期間は文章情報を脳が処理できずに、本を読めない(理解できない)ので、少しは理解できるつもりです。最近はそういう状況にも慣れつつあり、脳に負荷をかけない読み方(俗に言う斜め読みみたいな感覚です)で読んでいるのですが。

 

多分この小説の主題は弱者は本当に弱者のままでいなければならないのか。と言う点だと感じたのですが、運命に抗うというのは非常に貴重な行為だと思っています。たとえそれが理解されなくても。狂気的だと思われても。

それができたからこそこの作品はラストを描くことができ、作品として芸術的に、そして人間的変革をストーリーに含ませながら結ぶことができたんだと思います。

続き

明日の読書会がどうなるか楽しみですね。どんなお題が選ばれるか見当がつかないんですよね。また後日、読書会での模様をまとめられたらなと思います。(ただ、僕の休みが当分先なのでだいぶ遅くなりそうですが)。もしかしたらX(twitter

twitter.com

のほうで簡易報告の形になるかも知れないのでそちらをご覧いただければ嬉しいです。

それではまた。

 

追記:これは読書会の後のお話

今回のお題は

  1. 終盤部の聖書引用はどのような意味を持つのか
  2. 誰に向けた作品なのか
  3. 読書バリアフリーについて

でした。正直最初の2つは結論が出なかったので割愛します。(何か意見ある方はコメントいただけると嬉しいです)。最後の読書バリアフリーについて、本を持てない、めくれないといったことは、こうして本を持ち、読んでいる私たちへの皮肉なのかなとも感じました。最近はAudibleなど手で持たなくても識ることのできる読書方法がっくりつされたとはいえ、実際にそれを使っているかと言う問いに対してはほとんどがいいえでしたね。なかなか頭に残りにくいんですよね。また、コマーシャルとかを見ても身体障害者向けのというよりは、主婦など手が塞がっていても読書がしたいという需要向けなきもしますしね。

また、視覚障害者だったり精神障害者への読書バリアフリーはまだまだ難しくて先が長いんだなあということを確認しました。

 

これからものんびりと記事を更新していきます。秋の夜長に是非。

文責:イシ

作家紹介とおすすめ:中村文則

お久しぶりの更新になりますイシです。

今回は自分の推し作家、中村文則さん(以下敬称略)の作品について僭越ながら紹介させていただこうと思います。自分の好きな作品を推しポイントを交えながら書いていきます。少しだけネタバレ(というか概要バレ)はしてしまうので、先入観なくまっさらな状態で楽しみたい方は読んでもらってからこちらの記事に戻ってきてもらえると嬉しいです。また、僕は文学には素人なので解釈等は間違ってたらごめんなさい。

前置きはこれくらいにしてさっそく紹介に移っていきましょう!

プロローグ

僕が彼の作品に出会ったのは大学受験勉強の最中、高校3年生の頃でした。家から高校まで距離があり、予備校も高校とは反対方向の離れた場所だったので、僕の高校生活は家で過ごすことが多かったです。(まあ、そこまで社交的な性格でもないので)。別に活字中毒ではないので、元々はライトノベルとかも読んでいたのですが、だんだん根っからの理系が邪魔をしてファンタジーから距離を置くようになり、人間関係を描いた、特に青春小説を読むことが増えました。憧れもあったんでしょうね。ただ、歳をとるにつれて、主人公の年齢を越えるようになって、むなしさが浮き彫りになりほかのジャンルも読むようになりました。そんなときに出会ったのが彼の作品「何もかも憂鬱な夜に」です。それまで味わったことのない感覚に陥り、その頃から得体の知れない中毒性で、徐々に虫に取り憑かれるようになり、月を見上げるようになったのです。それから定期的に彼の作品を読み、今に至ります。ズットヨンデイテハコワレテシマウ。

 

作家プロフィール

詳細については外部サイトの方がよくまとまっているのでそちらを参照してもらえるといいかなと思います。

中村文則 - Wikipedia

愛知県東海市出身で地元愛知県の作家さんです。純文学がメインで、「土の中の子供」では芥川賞を受賞しています。

小説家 中村文則公式サイト -プロフィール-

作品観

太宰治ドストエフスキーカミュカフカなどの影響を受けていて、私小説の不条理文学といったジャンルになるのかなと思います。彼の小説は短編、中編、長編で趣向が違っていると感じられます。短編ではどこまでも人間味の強い、特に恵まれない境遇の人を扱った私小説という感じがします。中編と長編では”絶対悪”といえる人物が存在し、その人物の気分次第で主人公の人生が決まるような不条理さをはらんだ作品が多いです。また、長編ではそれに加えて、宗教というもの、またその拡張的概念(ナショナリティなど)を主題に扱うことが多い気がします。

そして中村作品初めての方は中編小説から入ることをおすすめします。短編は設定の説明が短く、読解力の乏しい僕からすると状況把握、感情把握に苦戦します。短いから簡単に読めるんだろうなーは罠です。

また―何作か読んだことのある方はわかると思いますが―基本的にHappy Endになることはないです。かといって、カフカの「変身」におけるグレゴールの最期のように完全なBad Endとも言い難いです。個人的には、主人公の境遇が作品開始時よりはましになったという意味でBetter Endと名付けたいです。一概にそうとも言い切れませんが。

 

作品紹介

ここからようやく作品の紹介に移っていきたいと思います。

中村文則のデビュー作です。ある日動かなくなった男の傍らに落ちていた銃を拾った主人公のお話。主題は凶器(狂気または狂喜)の携帯かと思います。境遇的に”銃を拾う”なんてこと日常にはないので、主人公の心理の把握が(僕は)うまくいかなかったですが、読みやすい作品かなと思います。単行本に収録されていた、短編小説「火」とともに、中村作品の原点となる一作であると感じられました。

 

遮光

この作品は2作目で、1作目と同様に狂気の携帯が主軸となっています。ただ、この作品は前作と違い、内面の犯罪衝動的狂気ではなく、狂気的な愛着が描かれています。「銃」と比較すると共感性は高いのかなと感じます。

どちらの作品も人間誰しも内在的に持ち合わせている(と少なくとも僕は感じている)狂気を物理的に実体化したような作品です。

 

何もかも憂鬱な夜に

先述もしましたが、この作品は僕が中村作品に触れるきっかけとなった1作です。読みやすく中村文則っぽさも強く、最初に読むにはおすすめの作品です。

これは看守と若い死刑囚の話です。生と死、善と悪。その境界線にいるような作品で、読んでいて考えさせられました。タイトルどおり、終始憂鬱さが晴れないストーリーなのですが(というより、憂鬱さの晴れる作品などないと思っていますが)、それがまたほっこりとした小説とは違う良さを生み出していて価値のある作品だなと感じました。

 

掏摸

この作品は中村文則の代表作といえるのではないでしょうか。この作品も最初の1作としておすすめです。読みやすくて彼の個性が出ていて、そして、中村作品のテンプレートみたいな構成をしています。

作中に登場する”城”など、理解するのが難しい概念的存在が登場する作品でもあり、読書会などで議論するのにも向いている一面もあります。過去に当サークルで課題本として扱わせてもらったときは、参加者から好評な作品でした。

掏摸師という共感できない存在に対して、”絶対悪”が対峙することで肩を持ちたくなり、次第に感覚移入していくというつくりです。悪を許せるかどうかというよりも、悪を通すことで人間というものを見るといった感覚でした。

 

王国

この作品は先ほど紹介した「掏摸」の姉妹編となります。姉妹編ですが、「王国」だけ読んでも物語を理解できるようにはなっています。ただ、僕は両方を読むことをおすすめします。さらに言うと、どちらかを再読することをおすすめします。個人的には「掏摸」→「王国」→「掏摸」ですかね。(僕もこの順で読みました)。というのも、「掏摸」の中の何気ない1文が「王国」を読んでいると理解でき、「王国」の中の1場面、1セリフは「掏摸」を読んでいないと理解できないようになっているからです。また、時系列的に「掏摸」→「王国」であり、「掏摸」のラストのその後が「王国」にて描かれています。

また、この作品は構成的にも「掏摸」と対をなしており、”城”のかわりに”月”が登場します。おそらく月はLunatic(狂気的な)の隠喩で、ほかの小説でも登場します。

 

悪意の手記

この作品も生と死、善と悪についての物語です。悪と言っても「掏摸」や「王国」のような絶対悪ではなく、個人としての悪というイメージです。死を覚悟しつつも生きることになった人間の、悪を犯しても普通に生きていく物語で、生きたいと願っても不条理さの故に命を狙われるほかの作品とは異なり、生きたいとすら思えなくなった人間の命の成り行きを見る作品となっています。

 

土の中の子供

この作品は芥川賞受賞作になります。タイトル通りに過去に土の中に埋められる虐待を受けた主人公が、トラウマを抱え、生きる意味を見つけられないまま大人になり、理不尽にさらされながらも生きていく話です。「何もかも憂鬱な夜に」と同じように、とことん暗い小説なのですが、中村作品の中では比較的よい結末をしていて、個人的には好きな作品です。

また、単行本の中には「蜘蛛の声」という「土の中の子供」とは対極をなすような作品が収録されており、比較しながら読むとさらに面白いと思います。

 

私の消滅

この作品は中村作品の中では一風変わった作品なのかもしれません。エッセンス的には彼の要素があるのですが、悪への対し方が違うのです。簡単に言うとこの物語は復讐の物語です。つまり、倒せない”絶対悪”が存在しないのです。(厳密には”絶対悪”的存在は登場します)。そして、その復讐の方法も斬新で個人的にはこれ以上の復讐方法を思いつけません。

ただ、この小説の難点は設定理解にとても時間がかかることです。僕は175ページ中100ページ付近でようやく設定を飲み込めました。(僕の理解力不足かもしれませんが)。

面白い作品ですが序盤をちゃんと理解した上で楽しむには再読が必須な作品ですね。

 

自由思考

ここまで短編、中編小説について紹介してきました。ここでいったんブレークとして、エッセイを紹介したいと思います。この本は彼の生い立ちみたいな部分や、趣味嗜好など、なぜ中村作品ができあがったのかという作者の価値観が垣間見える1冊です。1遍がとても短く、また、堅苦しくもない作品ですので、気軽に読むにはもってこいなのかなと思っています。

対となる本として「自由対談」がありますが、こちらはまだ読めてないので紹介は控えさせてもらいます。

 

教壇X

さて、長編部門に突入します。1作目は「教壇X」。タイトルから察することができるように宗教がモチーフとなった作品です。中村作品によく登場する宗教ですが、書き方として、”絶対悪”的トップの下で洗脳されている人間が描かれがちです。この作品も宗教に翻弄された人間が描かれており、宗教というものの力強さ、歪さなどが啓蒙されている作品であるといえると思います。

また、作中で”人々は原子レベルで捉えれば平等になる”という内容は共感させられました。

 

R帝国

この本は僕が中村文則の中で最も推している作品です。この本も宗教が登場するのですが、それ以上に宗教性を帯びているのは”ナショナリティ”という名前の宗教です。簡単に言うと日本国民という集団とそこにある不文律という戒律によって宗教になっているという考え方です。特に太平洋戦争中の日本がわかりやすいでしょうか。また、一部の声の大きい(よく発言する)信者をつくることで、思考せずの盲従する多数は先導され、思考するものでさえ数という暴力にひるんで従うことを保身的利点から選択するようになると示唆されていました。また、移民等の受け入れによって自分たちマジョリティ集団よりも下位層ができ、彼らの不満のはけ口になり、矛先が宗教集団のトップに向かなくなる。別のたとえで言うといじめと同例ですね。さらに、宗教体制が確立した後には真実を告げられたとしても、自分のナショナリティによるプライオリティを傷つけると判断すれば、事実などどうでもよく反発するとも表現されていました。

その一環として、作中の表現で「人間が欲しいのは、真実ではなく半径5メートルの幸福なのだ。」*1と述べられています。

地球上では、画面の向こうではウクライナ侵攻が報道されているのに、こうしてのうのうと記事を書いていられるのも、自分の半径5メートルの中にウクライナ侵攻という事実がないからだと思い知らされます。

 

そして、この物語の最後のセリフ。これはずっと頭の中を反芻します。

 

逃亡者

「一週間後、君が生きている確立は4%だ」*2

印象的な帯分に魅せられて買ってしまった1作。この本も宗教や戦争の話でした。「R帝国」では示唆で終わらせていた、戦時中の日本の宗教性について言及したり、隠れキリシタン弾圧の歴史などについても語られていました。また、「R帝国」では架空の国との架空の戦争(と言うよりも設定時代が未来)を扱っていましたが、本書では実際の太平洋戦争をベースにして話が展開されている場面もありました。今起こっている不条理な現状と過去の不条理な歴史を織り交ぜた1作で、2本立ての作品を読んでいるかのような心地でした。

珍しく心地よい着地点に止まるのか?と思ったらちゃんと不条理文学でしたね。

ただ、中村作品の中では比較的、読了感が悪くない(完全な不条理を含むのだけどそれでも救われている部分がちゃんとある)物語でした。

 

以降追記で書いています。

カード師

占い師の顔を持ちつつも、違法賭博場でいかさまのディーラーをしていた主人公。彼に頼まれた仕事はある男の占いだった。占いを信じない主人公が占いを道具に窮地を脱していく1作です。彼に逃げ場はない。必然、巻き込まれた全財産を賭したテキサス・ホールデムズのシーンは釘付けになりました。神と悪魔と、運命と現実と。中村文則らしい1作でした。

ちなみに作中で「教団X」に登場した人物が出てきていたらしいのですが、僕の記憶が遠く、思い出せませんでした。わかった方はぜひ教えてもらえると嬉しいです。

これは短編に属するのでしょうか。(ページ数的には中編ですかね)。抽象的な部分が多く、少し読みにくいと思います。というのも、あらすじを書きたいのですが、それが物語を読む楽しみを奪ってしまいそうで書きづらいです。中村小説らしい1作となっているのでぜひお試しください。

 

エピローグ

ここまでいろいろな本を紹介してきました。まだまだ読んでいない本もたくさんあるので少しずつ読んでいきたいと思います。(と悠長に言っていると読むペースよりも刊行のペースのが早くなってしまうんですよね)。中村文則は鬱々とした作品が多く、そうでないものは思想的作品に大別されるので、過剰摂取はおすすめしません。ただ、人生に絶望したときや疲れたときだったりに、”自分はまだ大丈夫だ”と思わせてくれるような作品はたくさんありますので、適薬適量、気分に合わせて時々読むくらいがちょうどいいのかなと個人的には思っています。

 

最後までお付き合いありがとうございました。それではまた次のブログでお会いしましょう。

文責:イシ

(10/29 追記)

(12/7 追記)

*1:「R帝国」p352

*2:「逃亡者」p14

おかっぱの女

こんにちは。ブログでのみ生存が確認できるがおです。

 

最近、ブログを書くために「むらさきのスカートの女」という本を購入しました。2019年に芥川賞を受賞した本で、160ページと比較的短いので読みやすいです。

自分の本を購入する際の基準が、なにかしら賞を受賞しているか否かになってきておりよろしくないな~と思っていますがまんまと主催者側の思惑に乗っていますね。

 

 

books.google.co.jp

あらすじ

紫色のスカートをいつも履き、公園のベンチの必ず決まった席に腰掛ける女は「むらさきのスカートの女」と町の人から言われている。むらさきのスカートの女を観察する私はむらさきのスカートの女と友達になるために自分の職場に就職するように誘導する。むらさきのスカートの女の一日の行動は常に私の観察で語られ物語は展開していく。

 

さてこの本を読み終わった感想はなぜこの本が芥川賞を受賞したかでした。

物語に起伏が少なく、巧みな表現や工夫を凝らした文があるわけではありません。ただむらさきのスカートの女の行動が私の観察(ストーキング)によって書かれているので気味の悪さがありました。

 

これでは抽象的な絵を見て、表現技法や画家の芸術性を感じ取れないないことはおろか自分の方が上手い絵を描けそうだと考える" 美術館にいる時の私" の状態になりかけていました。そこで選評を読んでみることにしました。

 

むらさきスカートの女 選評出典:『文藝春秋』令和1年/2019年9月号

 

「見る側の奇妙な思い込みは、他人を鏡にして自身のいびつさを際立たせるのだが、そのいびつさをなにか愛しいものに変えていく淡々とした語りの豪腕ぶりに、大きな魅力がある。」「本作を推した。」   堀江敏幸

 

語り部である女が、この小説では最も異常性が顕著だが、読み手はむらさきのスカートの女を変わり者として感じてしまう。このふたりがじつは同一人物ではないかと疑いだすと、正常と異常の垣根の曖昧さは、そのまま人間の迷宮へとつながっていく。今村さんは以前候補作となった「あひる」でも特異な才能を感じさせたが、今回の「むらさきの…」で本領を発揮して、わたしは受賞作として推した。」 宮本輝

 

むらさきのスカートの女を観察者の語りによってしかとらえることができない、人の存在は周りの認知によるものであることをむらさきの女のボヤっとした印象を読者に与え、読み終えた気味の悪さを感じさせる文の書き方が評価されていたのではないでしょうか。

 

本を読み終えた後、むらさきスカートの女のような存在が自分の身の回りにいるか考えてみました。

図書館に行くと必ず席の最後尾に座っているニット帽の男。彼の素性は知らないが、いつも自習室の定位置に座り、中高生に交じって勉強をしている。
ニット帽の男をどのように自分が観察しているかを考えることで自分がどんな思考の偏りを持ち他者を認知しているかや自分の中のいびつさがわかるのでしょうか?

 

また自分は他人にどう観察されているのか考えてみると面白いです。例えば私は毎朝6時52分の電車に乗るおかっぱの女と名付けられそうです。

" 彼女はたいてい6時52分の電車に乗り、一番側の席か、窓枠がある席に座る。背をもたれて寝るためだ。彼女は周りの様子をうかがうことをしない。過度に乗客と目を合わせることを恐れている。私はそんな彼女を見ながらどんな生活をしているのか予想する。彼女は恐らく口数が少なく__”

といったところでしょうか。

 

知人ではないが、一方的に知っている人間の一日を見てみるとその見方に自分自身を見ることができるかもしれませんね。(小並感)

 

書いた人  がお

 

フィクションとミステリーの融合

こんにちは。長らく幽霊サークル員と化していたfumiです。入学前には、大学は自由時間が多いと聞いていたのですが、理系学部にとってはそうではないらしく、入学してからの3年間で読んだ本の冊数は恐らく高校時代の1年分にも満たないと思います。最近も色々と忙しく、本を読む時間があまりとれなかったのですが、ブログの順番が回ってきたということで、最近に読んだ本の共通点について少し紹介したいと思います。

まず読んだ本の紹介です。

①「むかしむかしあるところに死体がありました。」-青柳碧人

 

②「屍人荘の殺人」-今村昌弘

 

③「魔眼の匣の殺人」-今村昌弘

 

④「兇人邸の殺人」-今村昌弘

 

①は短編集、②~④は同一シリーズものであるため、これを四冊と表現するかどうかは迷いましたが、この四冊の共通点について紹介します。
この四冊の共通点、それはフィクションとミステリーの融合です。この四冊はすべてミステリー小説でありながら、そのトリックや世界観に超常的な要素が含まれています。
具体的には、「むかしむかしあるところに死体がありました。」においてはそれぞれの昔話に対応した不思議道具や能力、「屍人荘の殺人」ではゾンビ、「魔眼の匣の殺人」では予言、「兇人邸の殺人」では巨人が超常的な要素として出てきます。
一見ミステリーを破壊しかねない超常能力ではありますが、これらの物語では、こういった超常能力にきちんとしたルールを定めることにより、ミステリーの一要素としてトリックの中に組み込まれています。
こういった小説は、ミステリーにおけるトリックは現実で再現可能であるという先入観をもっていた私にとって新しく、とても良い体験でした。

また忙しくなってきたため、今年もどれだけ本を読めるかは分かりませんが、次にブログを書く時までにはどこかで時間を見つけて本を2、3冊は読みたいと思います。

文責:fumi

新しい本に出会える本

こんにちは。

 もうかれこれひと月ほど経ってしまいましたが、新入生の皆さん、御入学おめでとうございます!


 新入生に限らず、進級や就職を機に活動形態・場所が変わった方など、4月から身を置く環境が大きく変化した方が、読んでくださっている方の中にもたくさんいらっしゃるのではないかと思います。

 また、環境の変化をきっかけとして、何か新しいものに触れたり、これまでにはない挑戦をしてみよう、と考えている方も、きっといらっしゃるのではないでしょうか。

 例えば、これまで全く関心の無かった作者やジャンルの本に手を出してみたい、とか。

 ということで、ちょっと展開が強引ですが、今回は未知の本との出会いをサポートしてくれる本、いわゆる「読書案内」本をいくつか取り上げたいと思います。

 

 

有栖川有栖「ミステリ国の人々」

 

 タイトルずばりそのまま、推理小説の、それも登場人物に焦点を当て、その人物を通じて作品や作者についても紹介するという形式のエッセイ集です。

 紹介される人物は全部で52人。シャーロックホームズや金田一耕助をはじめとする有名どころの探偵から、江戸川乱歩作品に登場する名探偵明智小五郎...ではなくその奥方で、登場作品も非常に少ない明智文代など、主役ではないけれど物語に彩りを与える登場人物にまで、丁寧にスポットライトが当たっています。

 著者である有栖川有栖氏自身も犯罪心理学者が謎を解く「火村英生シリーズ」などで有名な現役ミステリ作家であり、また幼少期からの熱心な推理小説愛読者であるため、作り手と読者、両方の視点からの魅力が存分に語られている点も魅力的です。

 また、推理ものというとやはり心配なのは作品の核ともいうべきトリックのネタバレですが、大事なところだけうまくぼかす、どうしても触れる場合は事前に警告を置くなど、念入りな配慮がなされています。

 同著者は他にも密室トリック作品だけを対象とした「有栖川有栖の密室大図鑑」や、他作品に向け書いたあとがきをまとめた「論理仕掛けの奇談」など、様々な案内本を出しています。特に「密室大図鑑」はひと密室ごとに室内状況が整理された詳細かつおしゃれなイラストがついているため、推理小説に初挑戦したいという方はもちろん、空間把握が苦手で密室ものが上手く楽しめなかった、という既読者の方にもおすすめです。

 

村上春樹「若い読者のための短編小説案内」

 

 先日6年ぶりの長編を出版し話題を呼んだ村上春樹による読書案内本です。

 扱われている作品は、戦後日本の代表的作家、文学史の中では「第三の新人」と呼ばれる人々によるものに限定されています。

 元々は著者がアメリカの大学院にて文学の授業を任された際、学生と共に読んで討論に使用したテキストであり、本書はそれをさらにに自己流に読み直して文章化したという形式となっています。

 故に作品の魅力をピックアップして読者に伝える、というよりかは、著者自身が各作品をどのように読みこなし、解釈したかを詳細に説明することに重点が置かれています。

 外国の、しかも大学院での授業がベースとなっていると聞くと、なんとなく難しく、手を出しづらいように思えてしまいますが、各話解説の理解に必要な創作の背景やあらすじが丁寧にまとめられている上に、議論が作中における作者の「自我表現」という一貫した軸に沿って進み、必要に応じて図解がなされるなど、作品を読んで議論や解釈をした経験があまりなくても置いてきぼりにされない工夫が各所でなされています。

 また、前書きや文中にて、著者自身が各作品に触れた経緯や自身の創作に与えた影響などが折に触れ紹介されているため、村上春樹の書いた作品をより味わうためのブックガイドとしても楽しむことが出来ます。

 さらに、この読書案内の編集者による、各作家の年表に、エッセイなどにおけるその時点の自身についての記述の引用を付した、非常に読みごたえがある作者紹介が附録としてついてくることも魅力の一つです。

 附録中ではありがたいことに、どの出版社のどのタイトルに収録されているか、オンライン上ではどのサイトから読めるかなど、取り上げられた作品へのアクセス方法まで明記されており、読みたいと思ってからかかる手間がかなり省かれてます。

 いずれも短編且つ、図書館に置かれた全集で読める作品ばかりなので、時間やお金をあまりかけずに新しいジャンルの本にチャレンジしてみたい、という方におすすめです。

 

寺山修司「ポケットに名言を」

 

 歌人であり劇作家の寺山修司が、古今東西の小説、映画、果ては歌謡曲まで、様々な媒体から集めた「名言」が並ぶ名言集です。

 先述の2冊のように読書案内を目的に作られた本ではないため、発言者と作品は併記されているものの、作中においてどんな文脈で発せられたのか、そもそも誰が発したのかなどの情報は一切ありません。また、場合によっては発言者のみが記載され、どのような経緯で世に出たのかすらわからないものもあります。

 しかし、だからこそ、気に入った表現一つが作中のどこかにあるはずだという、本当に最低限の情報だけ持った状態で、作品と出会うことができるのです。

 単体だと響いたけれど、作中で読むととそう感じられなかったり、反対に作中における背景を知ることで、違う見方ができるようになったり。

 前情報が少ない分、気に入った本に出会えるかのギャンブル性は高めですが、時間を惜しまずとにかく未知の本を読むきっかけが欲しい、という方にはおすすめです。

 

 

 以上、3冊を取り上げました。

 人に尋ねる、ネットで調べる、書店をうろつくなど、様々な本との出会い方がある今、「本を読んで本を探す」というのは少し回りくどい道に思われるかもしれませんが、手間がかかる分、「これだ!」と思える一冊に出会えた時の嬉しさはひとしおであるように感じます。

興味を持って下さった方は、ぜひ挑戦してみてください。

 

文責:黒谷

ひとことレポート「ビミョーな未来をどう生きるか」

ビミョーな未来をどう生きるか

著者:藤原 和博

ジャンル:啓発書(子供向け)

 

 

おすすめしたい度:★★☆☆☆

個人的満足度:★★★★☆

きっかけ:ちくまプリマー新書や岩波ジュニア新書を読んでみたいと以前から考えていて、中央図書館にあるもののなかで読みたい本を探していたらこの本に突き当たりました。

ひとこと:僕はずっと「大人になるまでにこれをしておけ」「とにかく人間力をつけることが大事なんだよ」といった大人の言葉がとても嫌いでした。曖昧な言葉ではぐらかして、大切なことを言葉で伝えてくれていないような気がしたからです。そのことを受け入れようとしただけで、目の前に窮屈な通り道を作られ、ほかの道は隔てられてしまったような気になったからです。この本も、そのような「窮屈な通り道を作る」本です。ただし、なぜその通路が幼少期~青年期に必要なのか、なぜ大人たちはその通路を作ろうとしてしまうのかということを伺えるようにも書かれている本なのです。この本を読んで、大人たちがこのようなことを言う理由を考える姿勢が芽生えました。言葉の表面的な意味を超えて、相手の事情や伝えたいことを考える姿勢を身につけることこそが「大切なこと」「大人になるまでにやるべきこと」なのかもしれないと今なら思えます。僕も含めて皆、このビミョーな未来を生きる正解が欲しくて、でも自分の歩んできた道を正解だと信じたくて、おびえているのかもしれません。

 

書いてて思いましたが全然ひとことじゃないですね。

 

書いたひと:翔太