名古屋大学読書サークル

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”物語を読む”とはどんな行為なのか(後編)

I am a part of everything that I have read.

Theodore Roosevelt (1858~1919)

(私は私が今までに読んできたものの一部である。)

 

ここからは”物語を読む”という行為について前編とは別の視点で考えていきたいと思う。後編だけでも簡潔はしているが、ぜひとも前編を読んでから読んでいただきたい。(作者はその意図でこの順に執筆している)。

meidaidokusyo.hatenablog.com

今回の記事は前回よりは脅迫的で強引な記事ではないと思う。なぜなら、比較的引用元がはっきりしていて、創造に易いからだ。ただ、こうして記事を書いている以上、多少の主観は混じることは了承いただきたい。

 

この記事はレイ・ブラッドベリ華氏451度をベースに書いていこうと思う。未読の方に向けて簡単にあらすじを紹介する。(書きたい内容の特性上、ネタバレも含んでしまうのは申し訳ない)。

近未来に建物は完全な防火性を手に入れ消防士という職業は不要になり、代わりに昇火士という職業が生まれた。この世界では本を持つことは犯罪であり、通報を受けたら昇火士は本を燃やして処分していた。昇火士の主人公は仕事をしながらも、なぜ本は禁じられないといけないのか疑問に思っていた。上司曰く、「本は何も言っていない」、そいて白人は「アンクルトムの小屋」を嫌がり、黒人は「ちびくろサンボ」を好まない。だから抗争になる前にそんな本を排除してしまえと説く。そんな彼は、かなり紆余曲折あって、本を識る人たちに出会うのである。ただし、彼らは本を持っている訳ではない。それぞれが本を諳んじることができるのである。

 

こんな話もある。少し憶測が混じるのだが(そもそも事実を記すのが困難であったため、確たる根拠を見つけられなかった)、潜伏キリシタンの話である。江戸時代初期、江戸幕府鎖国をし、踏絵キリスト教を弾圧したのは歴史の授業でも習ったのではないだろうか。島原の乱など潜伏キリシタンの歴史の有名部分は初期に偏っているだろう。しかしながら、潜伏キリシタンの歴史はそこにとどまらない。禁教の中でキリスト教の教えを守り抜いた人々がいるのだ。そんな彼らは、鎖国が解け、プティジャンに発見されるまで潜伏し続けたのである。書に残していたならば、きっと役人に見つけられてしまう。だからこそ人々は細々と口伝し続けたのではないかと想像する。

余談ではあるが、発見をきっかけに名乗り出るものも現れたが、当時はキリスト教は禁教だったため聖職者や信者は拷問を受けたり、流罪になったりした。それがキリスト教を国教とするヨーロッパやアメリカに伝わり、非難を受けて解禁へとつながったのである。

 

さて、この2つの共通点がおわかりだろうか。それはそこに書物がなくとも物語はあるという事実である。(聖書を物語と呼ぶかは難しいところだが、華氏451度でも書物の中に聖書は登場した)。そしてここで、冒頭の引用文を使いたい。本という物理的媒体がなくても、本を読むことで自分自身の中に物語が存在するようになるのである。つまり、人間は本棚であり、読むという行為はそこに陳列することに等しい。

また、”物語を読む”ということをこのように考えていくと読み聞かせも読書と同じなのではないだろうか。さらには神話や伝承も。

もともと神話などは口伝から始まり、一貫性を持たせるために本という媒体を借り、後の人間に読ませた。本は不変であり、一度書けば何代先までも伝わるので便利なのである。また、聖書などを例に挙げても広く普及させるのにも都合がよかった。

 

これまでの話を総括すると、”物語を読む”ということは物理的媒体を読み、物体から切り離して、自分の中の一部にすることである。また、その逆をすることもでき、そこには双方向関係が成り立っていると考えることができる。

逆についての話は、次回のブログ、「”物語を書く”とはどんな行為なのか」にて触れていきたいと思う。また次回会えることを期待している。

文責:イシ