名古屋大学読書サークル

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”物語を書く”とはどんな行為なのか

There are three rules for writing a novel.

Unfortunately, no one knows what they are.

Somerset Maugham (1874~1965)

(物語を書くためのルールが3つある。

残念なことに誰もそれが何だかを知らない。)

 

この記事は「”物語を読む”とはどんな行為なのか(前編)(後編)」と蜜に絡んでいる。故に、正しく理解してもらうためにも、より深く納得してもらうためにも、この2作を読んでから、こちらを読み始めて欲しい。

meidaidokusyo.hatenablog.com

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それでは、後編まで読んだという体で話を進めていこう。

まず、前編を整理すると、文章を書くとは神の視点に立つことになる。この表現は他の方もよく使われるのだが、自分の場合は絶対神唯一神というニュアンスがさらに含まれる。追記した理由としては、宗教の絡んだ小説を理解深く包含するためである。

例としてアンドレ・ジッドの「狭き門」を挙げる。この話のあらすじとしては、主人公のジェロームが、従姉のアリサに好意を持ち、二人は相思相愛の状態であった。アリサの妹のジュリエットもジェロームのことが好きであったが、周囲とともに姉のことを応援していた。しかし、神の国に興味を持つアリサは”狭き門”を通過するためには地上での幸福を捨てる必要があり、ついには結婚を諦めて一人で命を落としてしまう。

この作品はキリスト教の神が全面的に描かれた作品で、単に神の視点と書いてしまうとアリサが信仰していたキリスト教の神の視点になってしまい、自分の見解と合わない。

つまり、神すらも思いのままに操る神(それをなんと呼ぶのだろうか)に作者はなっているのである。

 

ちなみに、私が物語を書くときは、登場人物や設定とある程度のテーマだけを決めて、脳内に創作した登場人物を遊ばせているのを書き留めていることが多い。個人的には作品の不自然さを排除でき、一貫性があり人間味あるストーリーができるのでよく用いている。そして、神の立場で書いていることを自覚している。

 

そして、後編の方では、人々の心の中にあるものを明文化し、広く長期的に流布できるような形にすることであると考えることができる。

こちらも例を挙げよう。シュロモ・ヴェネチアの「私はガス室で『特殊任務』をしていた」を紹介させてもらう。この話はノンフィクションで、第二次世界大戦中にホロコーストによって強制収容所に送られ、そこで毒ガスにより命を落とした人から、服や金歯、銀歯などの金になりそうなものを剥ぎ、遺体を埋める作業をさせられていたユダヤ人の話である。この話は対談を文書化したもので、まさに心の中を本にしたものといえる。(僕の感覚としては、対談ではなく物語として話が入ってきた感覚であった)。

この話はノンフィクションだが、フィクションを書く作家でも、似たようなことをしていると感じる。例えば、自身の興味あることについて本や取材を通して学習し、それを自分の中で昇華させて物語を紡ぐといった具合に。私も書きたい内容の主題に近い部分はそうなりがちな気がする。

 

この2点をまとめると、絶対神という自身の感性の具現化によって物語は書かれているといえる。最初の引用に戻ろう。モームによると物語を書くときのルールが3つあり、それはわからないという。それは当然のことであろう。なぜなら物語とは絶対神である作者の制御下に置かれていて、神としてルールを決める立場になる作家の感性は人それぞれなのだから。わからないというよりは共通解を見つけるのが極めて難解であるという表現のが近いのだろう。

 

ここまで読んできてどう感じただろうか。普段、何気なく行っている、物語を読む、書くという行為について考え直すことは非常に面白いことであると感じている。

読者の皆さんももう一度これらの行為について向き合ってみることをおすすめする。きっと貴重な出会いや気づきがあるはずだ。

文責:イシ