名古屋大学読書サークル

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ハートフィールドの影を追って

デレク・ハートフィールドという小説家を知っているだろうか?恐らくだが、名前を聞いたことすらないという人の方が多いのではないかと思う。

 

デレク・ハートフィールドオハイオ出身の小説家である。友達を特に作ることもなく、彼は少年時代をパルプマガジンを読み漁り、母の手製のクッキーを食べるといった具合にして過ごした。ハイスクールを卒業後は郵便局に勤めたりなどしたが特に長続きもせず、気づけば彼は小説家になっていた。そしてタイプライターで冒険小説や怪奇小説を年に何万字も書き殴り続けて生涯を過ごし、その果てに彼はエンパイアステートビルから飛び降りて、自らの手でその不毛な生涯に幕をおろした。デレク・ハートフィールドとはそういう人である。

 

彼の作品は、正直なことを言うと、例えば文学史的にはそこまで有名なわけではない。こう言ってしまうと悪いけれど、彼の作品はストーリーもテーマもそこまで優れたものではない。だからそれは当然のことであると僕も思う。

 

しかし僕は彼の小説が好きだ。彼の文章がたまらなく好きだ。彼の作品を読んでいる中で、何かどうしようもない欠点を発見することも多々あるし、それについて一日中批判し続けることもできる。けれど同時に、彼の作品の良さ、そして彼という人間の偉大さについて、僕は三日三晩語り続けることができると思う。

 

僕の中で彼は固有の位置を占めている。僕は彼から人生に関する殆ど多くの学んだ。好きな作家を問われたら僕はただ一言「ハートフィールド」と答えるだろう。僕にとって彼はそういう作家である。

 

 

 

僕が彼を初めて知ったのは村上春樹の短編小説「風の歌を聴け」を読んだ時のことである。

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https://www.amazon.co.jp/dp/B01G6MF4J2

 

風の歌を聴け」は村上春樹のデビュー作である。今では日本を代表する存在となったこの作家は、若き日に書いたこの小説において、僕がこの文の冒頭で見せた以上の熱量をもってハートフィールドについて言及している。もちろんハートフィールドへの言及のみによって小説を構成している、というようなことはない。言及されている部分は全体の一割程度にすぎない。そしてその一割の部分に関しても、パッと見て分かるような荒々しい熱さでもって書かれているわけではない。

 

そもそもこの小説自体、体育会系と呼ばれるような「熱さ」から、遠く離れた場所にある小説である。寧ろ冷たく乾いていてあらゆるものへの気怠さに満ちている。決して、例えばバンドボーカルの主人公が武道館を目指して頑張り、小説の最後で「風の歌を聴いてくれ〜!!」と熱唱しまくった挙句、「俺たちの風はまだまだ吹き始めたばかりだ」などと言い出すような小説などではない。

 

これは、ある一夏を主人公の「僕」が特に何をするでもなく日々を過ごす、という話である。やることといえば「ジェイズ・バー」で相棒の「鼠」と共にひたすらにビールを煽ること、飲み過ぎてゲロを吐くこと、そして時々女の子と寝たりすること、ただそれだけ。なんの感慨もなんの教訓も、この小説には存在しない。

 

この小説の中で「僕」は度々ハートフィールドについて言及する。ある時は彼の不毛さを、ある時は彼の人生観を、ある時は彼のある小説のあらすじを、その何もない日々の中で、寧ろ「何もない」によって豊かに満たされている日々の中で、「僕」はぽつりぽつりと語っていく。

 

最初にこの小説を読んだ時、実は僕は「デレク・ハートフィールド」という単語が特に気にならなかった。「そういう作家がいるんだな」という程度の感想しか僕は抱かなかった。先ほども書いたように、言及部分は全体の一割にも満たなかったからだ。そして何よりも「村上春樹という作家はなんていい小説を書くんだろう」という感想の方が僕にとっては大きかったからだ。

 

僕にとって「風の歌を聴け」は、初めて読んだ村上春樹の小説だった。この小説はその時点の僕にとって、今まで読んだどの小説とも全く異なっていた。村上春樹、という小説家がなにやら有名らしい、ということは知っていた。けれど実際に彼の小説を読んだことはなかった。しかしある時、よく行く本屋の片隅で埃を被っていたこの一冊の小説に僕は何故だか目が留まった。そして気づいた時には僕はこれをもってレジへと並んでいた。なにかしらの予感が僕にはあった。そしてその予感はまさしく的中した。「風の歌を聴け」は素晴らしい小説だった。

 

 

風の歌を聴け」を読んで以来、僕は村上春樹の小説をよく読むようになった。とは言っても僕は同じ本を繰り返し読むというタイプの読書家だったので、手当たり次第に村上春樹作品を入手して読む、というようなことをしたわけではなかった。いくつかの彼の作品を、僕は繰り返し繰り返し味わうように読んだ。彼の作品は何度読んでも面白さが衰えることはなかった。寧ろ読めば読むほどに新しいものを僕はそこに発見した。「風の歌を聴け」を、僕はつまりそのようにして繰り返して読んだのだった。

 

そして「風の歌を聴け」何度か読み返すうちに一つの疑念が産まれた。それは、この小説は寧ろハートフィールドについての小説なのではないのかということだ。全体の一割にも満たないその部分こそが、この小説の核なのではないか、小さく静かな熱がそこには込められているのではないか、そういう、ある種突拍子もないような考えが次第に大きくなっていった。そう、実はそれは単なる小説を彩るための要素の一つなどではなく、それこそがこの小説において村上春樹が書きたかったことなのである。本当に一番語りたいことについて作家は多く書かないものである。寧ろ少ない文章の中で、その密度を上げることによって作家はそれを語るのである。そして村上春樹デレク・ハートフィールドについてそのような方法で語っていたのである。

 

そのことに気がついた時から、僕は「デレク・ハートフィールド」という正体不明の作家に、完全に心を奪われてしまった。彼について、「風の歌を聴け」で紹介されている以上のことが知りたくてどうしようもしていられなくなった。そうして僕は、彼の小説を読んでみようと決意したのだった。

 

しかしそこからが大変だった。

 

前述の通り、彼の作品はそこまで有名なわけではない。だから彼の書いた本の全ては既に絶版になっており、彼の小説を手に入れるのは今現在では殆ど不可能に近い。彼の小説を読むために、僕は多くの時間と手間を割いた。まず僕は図書館という図書館をしらみ潰しに探した。しかし彼の本は見つからなかった。次に僕はインターネットの海へと飛び込み、彼の名前を探した。しかし殆ど何も得ることはできなかった。その時点で僕はどうしようもなく絶望していたが、それでも諦めず探し続けるうちに、ある時街の外れの古本屋で、ようやく一冊だけだが彼の短篇集を手に入れ読むことができた。

 

そこには「風の歌を聴け」を読んだ時に想像していた倍以上の素晴らしい小説が収録されていた。僕はそれを「生涯で読んだ一番の小説」として本棚の一番良いところに置くことにしたのだった。

 

その短編集がどんなだったかを、僕はここで具体的に語ることはしない。ただ、僕がその小説を読んで大いに感動したということを今までの文章から多少なりとも理解してもらえると嬉しく思う。僕は今でもその短編集をことあるごとに読み返し、そしてその度に「なんて素晴らしいんだろう」と思うのである。そしてその感動を誰かと共有したいと思ったりもする。

 

けれどもやはり、僕は彼の小説について具体的に語り、伝えるということをしたりはしない。何かを伝えるということは、それ以外の全てについて何も伝えないということだからだ。僕は彼を尊敬している。僕は彼に対して真摯的でありたい。だから僕は沈黙をもって彼の小説の具体について語ることしかできないのだ。だからこの文を読んだ人達には申し訳ないが、彼について知りたい場合は村上春樹の処女作「風の歌を聴け」を読むか、日本中の古本屋を一軒一軒探すしか方法はないかと思われる。

 

しかし一つだけ言っておかねばならないのは、僕が彼の短編集の一冊を見つけた古本屋はもうこの世に存在しないということだ。

 

ある地方を旅行しているときに見つけたその古本屋には、実は他にもハートフィールドの小説が売られていた。彼の最大のヒット作である「冒険児ウォルド」に関しては、その全巻が揃っていたりもした。しかし僕はその時あまりお金を持っていなかったので、結果として一冊の短編集しか買うことができなかった。店主のおじさんは「また次来た時によってみてほしい」と優しく声をかけてくれたが、一年後に、僕が再び、今度は大金を握りしめてその地を訪れた時、かつて古本屋があったその場所には小さなコンビニエンスストアができていた。仕方なく僕はそのコンビニエンスストアで缶ビールを大量に購入し、その夜取っていた宿で吐くまでそれを飲み続けた。

 

 

僕は古本屋を巡るのが趣味だった。デレク・ハートフィールドに僕が出会うずっと前から、僕は僕の彼女と一緒によく古本屋を巡ったりしていた。それは今でも変わっていない。しかしデレク・ハートフィールドを知ってからというもの、僕にとってそれは単なる趣味以上の意味合いを持つようになった。

 

旅行に行った時に、以前は「古本屋があったなら」そこに入るという感じだったが、今では必ずその地の古本屋ほとんど全ての古本屋へと足を運ぶようになった。だから旅行の日程の半分は古本屋を巡ることに費やされる。「半分に日程を割ってそれぞれ好きなことをした方がいいんだ」というので僕が彼女を説得したのだ。そして訪れた古本屋で、僕と同じように僕の彼女も本が好きなのだが、そんな彼女が呆れるくらい、僕は棚をくまなく見て、そこにデレク・ハートフィールドの名前を探す。しかしその名前を僕は見つけることができない。そして何も買うことなく店を出て、次の古本屋へと足を向ける。それを何度も繰り返す。しかし結局僕は何も得ることができない。僕は彼女の小言を聞きながらひたすらにあの日と同じようにビールを吐くまで飲み続ける。

 

 

そういうことが、もう何年も続いている。「いい加減に諦めたら?」と僕の彼女は言う。「それよりも美味しい料理と綺麗な風景と可愛い雑貨に興味を向けてほしい」のだと。そういう考えが世の中に存在するということを僕は理解できなくもない。

 

しかしそれが一体なんだというのだろう?美味しい料理、綺麗な風景、可愛い雑貨。そんなものの中に、真理など存在しない。あるのは「何もない」すら存在しない、ある種の空虚さだけだと僕は思う。結局のところ、僕に必要なのはそういったくだらない様々ではなく、デレク・ハートフィールドの書いた一編の小説だけなのである。それだけが真実であってそれ以外は特にどうだっていいことなのだ。だから僕は今日も街の片隅に、郵便受けの中に、潰れかけの古本屋に、デレク・ハートフィールドの名前を探すのだ。

 

決して捕まえることのできないハートフィールドの影を、僕は永遠に追い続けるだろう。彼がその生涯をかけて、不毛な争いに自身の全てを捧げたように。

 

書いた人 梶