名古屋大学読書サークル

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さあ、今から議論をしよう:オメラスから歩み去る人々編

今回は以前の読書会で扱った、「オメラスから歩み去る人々」について読書会では扱わなかった疑問提起をしたいと思う。

 

あらすじ

オメラスという幸福な街がある。何一つ不満もなく、皆が幸せに暮らしている。しかしながらこのオメラスの幸福な秩序を保つためには、ある地下牢に閉じ込められ虐待されている知的障害の子供の存在が必要不可欠である。彼をそこから解放すればオメラスは不幸になってしまうと誰もが知っている。この地下牢の存在は分別のついた10歳頃に子供に説明される。あるものは彼のために何かできないかと言い、ある者は泣き叫ぶ。そして、それから数日もしくは数年の後に彼らは一人でオメラスから歩み去る。

この話はマイケルサンデルの「これからの『正義』の話をしよう」でも引用されていた。

 

読書会のお題

読書会のお題は次のようだった。

・あなたは子供の犠牲を知った状態で、オメラスに残るか
・オメラスから歩み去る人々はどこへ行くのか
・「これからの『正義』の話をしよう」ではベンサムの合理主義への反論として挙げられた。功利主義の正義性について考えてみよう。
・この物語は現在の象徴天皇制に近い。象徴的天皇は必要か。
・見方によっては障害者を隔離して健常者の生活に介入させないことによってオメラスの幸福を保っている。このことが許せるか。

当日はこれについて議論を行った。(お題が多かったのであまり進まなかった)

ただ、私が提起したいのは以下の問いである。

新しい問題提起

犠牲の子供の幸福状態と街全体の幸福状態が反比例の関係にあるものとする。つまり地下牢から解放しただけではオメラスの幸福が終わるわけではない。ただ、モップから離れることができ、衛生環境、開放感などの点から、少しだけ子供は幸福になり、街は不幸になる。

オメラスの人々は子供の身体を綺麗にしてやることも、衣食住を提供する権利もある。しかし、子供に尽くせば街は、自分は不幸になる。あなたはそうするだろうか?
(子供に尽くしたところで、過去のトラウマなどから、不幸に囚われ続けたままかもしれない。その場合、オメラスは不幸にならない)
また、その行為をオメラスの第三者の立場で見るとすると、手助けする、傍観する、妨害するの3つの選択肢がある。あなたはどれを選ぶだろうか?

そして、ある人が子供の面倒などをみてある程度幸せになり、オメラスはそれなりに不幸な街になったとしよう。そのときあなたは子供をいじめることで不幸にさせ、街の幸福度を、自分の幸福度を上げることができるが、そうするだろうか?
また、そうしている人がいたとしてあなたは、加担、静観、阻止いずれの行動に出るか?

一般的に考えると、個人の思惟がぶつかり合って、オメラスの人々全員が1パターンの行動を取るとは考え難い。詰まるところ子供の扱いを巡った闘争になってしまう。
それを阻止するために「子供の幸福度を決める議会」ができたとしよう。この議会は他人の幸福度を決めるという点で正当なのだろうか?また、この議会に子供は隣席させるべきか?さらには発言権を持たせるべきか?

 

さて、あなたはどう考えるだろうか。

文責:イシ