名古屋大学読書サークル

サークルメンバーがゆるりと記事を書くスペースです

パスタ、パスタ、パスタ!

 

世のパスタ好きには申し訳ないのだけど、私にとってパスタは、「あかん、自分が食べたいものが全然分からん、でもお腹が空いて頭が働かんから、何か食べないともっとあかんことになる気がする、仕方ないからパスタでも食べるか……」みたいな諦めの先で食べるものだ。

つまり、諦めた食事=パスタなのである。美味しいパスタに出会ったことがないからではないか、と言われれば、何も言い返せはしない。私にとってパスタとは、スーパーマーケットのスパゲッティー、200円前後のパスタソースで完成するものでしかない。

 

先日、朝、昼、晩、パスタ、パスタ、パスタになってしまったことがあった。「諦めの日」と呼んでいい。自分の食べたいものが何も思い浮かばず、脳内の「絶対にこれが食べたい」フォルダーはすっからかんのまま。ずっとこんな日々が続いたらどうしよう。パスタ、パスタ、パスタ、永遠に、パスタ。もうそうなったら、パスタの奴隷やなあと悲しい気持ちになりながら眠りについた。

次の日、朝、昼、パスタ、パスタ、ときた。もはや惰性である。悲しみさえ、惰性である。食べたいものが分からない自分を不甲斐なく思いながら、読書をする昼下がり。湯本香樹実さんの『岸辺の旅』を読んでいた。死んだ夫と旅に出る女の話なのだけど、その女が、しらたまをつくり、二人で食べる場面がある。しらたまは彼女の夫・優介の好物だった。

 

向かいあって、ふたりで食べた。白砂糖だけかけて出すのははじめてだったが、優介はひとつひとつ、甘さと口あたりをたしかめるように食べている。(中略)はじめて私のつくったしらたまを食べたとき、彼はまるでそのやわらかさをこわがっているみたいにそっと口を動かしていた。そうだ、そうやって、少しずつ、お互いの世界を広げていったのだ。

 

読みながら、私の「絶対にこれが食べたい」フォルダーに、静かに「しらたま」がおりてゆくのを感じた。そうだ、夕飯は、しらたまにしよう。私は、そういえば幼い頃からフルーツポンチが大好きで、フルーツがたくさんだと楽しい気持ちになる。だけど、その日は、できるだけ、『岸辺の旅』にでてきたしらたまの素朴さから遠ざからないように、ラズベリーとしらたまを三矢サイダーにつけるだけのフルーツポンチにしようと思った。

読み終えたとき、物語の余韻よりも、パスタからの解放感で私の心はいっぱいだった。

 

それまでにも、同じような経験がある。

私は、自分が本当に食べたいと思うものを決めるのがどうも苦手なようで、一人暮らしをはじめてからは特にそのいやな性質は顕著になり、すぐに好きでもないパスタに逃げてしまう。だけど、物語を読み、そこにでてきた食べ物や料理に触れることで、時々は、「絶対にこれが食べたい」を見つけることができたりするのだった。

私にとって読書とは、パスタの呪いと戦う自分をすくってくれる営みのひとつでもあるのだろうなと思う。もちろんそれは、本に限らず、映画にもあてはまることなのだけど。

と、ここまで書いておきながら、現在の私の「絶対にこれが食べたい」フォルダーには何もなく、今日の夕飯は、このままいくとパスタになる。大変まずい。美味しい料理がでてくる本、いや、べつに美味しい料理でなくていいから、何か、主人公やそれ以外の登場人物にとって大切な料理や食べ物がでてくる本をつねに募集している。もし、思いついたら、教えてね。

それでは。今更ながら、はじめまして。今夜はきっとパスタの e でした。