名古屋大学読書サークル

サークルメンバーがゆるりと記事を書くスペースです

読書会の様子(残像に口紅を)

こんにちは。少し遅くなってしまいましたが、Twitterでの宣言通りこの前の読書会の詳細についてブログにまとめてみました。

まず最初に、我々がどのように活動してるのか、ご存知ない方も多いと思いますので、その説明から始めたいと思います。当サークルには読書会係という役職?がありまして、2ヶ月に1度、今後の読書会での課題本の選書や、その司会を決める会があります。そして、そこで決まった司会の人が、自分の当番の回のお題を決め、アナウンスや司会進行(名目上)を行います。
ちなみに先日の読書会では司会が私、イシでお題は下記の3つでした。

筒井康隆はなぜ80-90年代に前衛化したのか
・「超虚構」とはなんだったのか、また現実とは虚構なのか
・実験的小説とあるが、この小説から得られたこととは

 

 

まず、1つ目については、事実の確認みたいな感じでしたので割愛しますね。筒井康隆の経歴や断筆宣言とかが話にあがりました。

そして、2つ目のお題、これがものすごく白熱しました。いろいろな意見がでましたが、最終的に賛同が多かった意見についてまとめていきます。

まず、超虚構とはなんだったのかについて。これを考えるにあたって、まず虚構から考え始めました。最終的な意見では、虚構とは現実の投影のようなものであり、現実には存在しないが人間が想像でき、そしてその想像の範疇に収まるものであるという話になりました。ファンタジーやSFはもちろん、現実に則した話であっても、現実と異なる点があればそれは虚構になるという考えです。つまり、物語はノンフィクションを除き全て虚構であるということです。(当然「残像に口紅を」も)そして、超虚構とは人間が想像すらできないことであり、想像可能になったり、現実に起こることで、その存在が超虚構であったことを知ることができるものであるという意見になりました。


また、現実は虚構かという問いに対しては、「虚構とは何か」での意見と同様に、現実と虚構は別物であるという意見が多数でした。また、論拠の1つとして言葉と認識に関する意見がありました。人間が現実の事物を認識しようとするとき、まず文字を利用します。そのものの名称がわからないときに〇〇のようなものと説明するやつです。要するに既存の普遍的事物を用いてカテゴライズをすることで理解している、という話です。反面、虚構を理解しようとするとき、そもそも虚構が現実からの投影であるため、虚構内のものはカテゴライズという過程が必要ないのです。つまり、カテゴライズし概念化、イメージ化されたものを、再びカテゴリーに戻すことで認知しているのです。このように、現実と虚構では認識のプロセスが完全に異なるのです。そのため、現実と虚構を地続きなものと捉えるのには無理があるのではという結論になりました。

 

最後に「この小説で得られたこととは」については、この小説で2つのことについて実験されていたのではという認識でした。1つ目は世界から音を引いていっても文章が成立するのか。2つ目が現実とは虚構なのかです。1つ目については終盤で文章が崩れてはいるが、意味としてなんとか読み取れる状態にあります。よって実験成功とも失敗とも言えないようでした。2つ目については先ほども述べたとおり、現実とは虚構ではないので現実を虚構とする試みは失敗だと言えます。また、この話において、物語、作者、読者の位置関係について話題に上がりました。従来の作品では次元的に物語/作者、読者ですが、この小説では、物語、作者/読者であると感じました。つまり、物語(虚構)と読者(現実)の次元的差異は従来の作品と変わらないのです。その意味では、虚構(物語)と現実(読者)を地続きにする試みは失敗したと言えるでしょう。

 

どうでしたか?こんな感じで普段読書会をしています。テーマについて語り終えた後は雑談をしています。前回の読書会では、超虚構的な未来の話をしたり、政治の話になったり、動物の話になったり、はたまたコスプレの話になったり、わいわいと雑談してました。

また、読書会でも今回のような課題本形式の他にトークテーマ形式のものもあります。トークテーマの場合は、例えば「昔話」のようにテーマが決まっており、それについてわいわいと話すって感じです。テーマ「昔話」では、動物ごとに役割みたいなものが決まっているよねっていう話や、恩返しする動物多くない?っていう話題になりました。

当サークルは大学生(対面活動の拠点は名古屋大学ですが、所属大学は問いません)に限り、年中新入部員を募集中ですので、興味のある方は遠慮なくご連絡ください。

 

文責:イシ