名古屋大学読書サークル

サークルメンバーがゆるりと記事を書くスペースです

切ない恋のお話

こんにちは。

今日は2月14日、バレンタインデーですね🍫

バレンタインと言えばラブストーリー。ハッピーな話よりも切ない話のが印象に残っているので昔に読んだ恋愛小説を紹介します。

七月のテロメアが尽きるまで

この本は難病作品の中で最も好きな1作です。なんといっても言葉のセンスがいい。どこまでも透明で、純情で、まっすぐな様。タイトルに月が入る3作目なのだが、最も好きな作品でした。

テロメアとは細胞分裂に関わる染色体の構造で、細胞分裂できる最大の回数を担っていると考えられています。”それが尽きるまで”、つまり”これ以上細胞が分裂できなくなって死に向かうまで”という話なのですが、それでも少女はがんばって生きようとします。不意なきっかけで、彼女の遺書を知ってしまった男の子。だんだん彼女に惹かれて、彼女を守る決意をします。

二人の会話や、遺書のパスワードの伏線。そして彼女の最期。この作品はどこから観ても推せます。

Hello, Hello and Hello

表紙きれいですよね。続いて紹介するのは毎週火曜日に世界から忘れられてしまう少女。彼女は男の子に恋をした。

「初めまして」

彼女は毎週男の子に声をかけ続ける。1週間で仲良くなっても忘れられてしまうのに。何度も、何度も、・・・。

そして214回目の初めまして。忘れ去られる直前に彼女は「好きです」とまっすぐに伝える。走って彼女の元に向かう男の子。ただ、その途中でループは来て・・・。

世界に存在しないはずの彼女の残滓に切なくなること間違いなし。

余談ですが、とても鮮やかで文学よりの小説だと感じたのですが、当時Twitterでお話ししてて理系の方だと知りました。本職とのギャップ!

この恋は世界でいちばん美しい雨

おほかたに さみだるるとや 思うらむ 君恋ひわたる 今日のながめを

最後に紹介するのは切なくて思わず涙した1作です。事故に遭って死んでしまったカップル。そんな2人に、1人10年、合計で20年という余命が渡されます。ライフシェアリングというシステムにより、自分が幸せを感じると相手から1年寿命を奪い、悲しみを感じると相手に渡すことになります。体質から幸せを感じやすい彼女と感じにくい彼氏。キスをするという行為でも彼女だけが一方的に寿命を奪ってしまう。幸せを感じることに対してわだかまりを抱えつつもどんどん2人の合計寿命は短くなっていく。

最期に片方が死んだとき、その人は世界から忘れられる代わりに、大好きな人を想って一度だけ涙の雨を流すことができる。

切なさの最後を迎えること間違いなしの1作です。

余談ですが、一時期僕の感想が電車広告やPOPになっていました。

 

皆さんはどんな恋をされているでしょうか。僕は体験するならハッピーな恋愛がいいですが、物語としては切ない作品が好きですね。

2024年に読んだ本

 こんにちは。初めましての人はボンジョルノ。君が代が好きな人は盆踊り。どうも、ゆおです。

 絶賛今帰省中なのですが、*1家では墓の話ばっかりしてて面白くないので、実家にある本を久しぶりにパラパラめくって思った感想でもつらつら述べていきます。そしてこれらは全て元日に読み返したので、正真正銘2024年に読んだ本です。これ、年末とかに一年を振り返る目的で出す際にしか使われないタイトルなので、恐らく2024年にこのようなタイトルでブログを投稿した人の一番乗りな気がします。2024年に読んだ本ブログRTAの王座は私のものです。

 

三島由紀夫『不道徳教育講座』

 今年の初笑いを持っていかれました。面白いしためになる。なにより観察眼が鋭い。ただ一方で本当に不快でもあります。あまりにも正直すぎて。
 三島由紀夫は解説の中で「あまりに真面目な人物」と評されていますが、まさしくその通りだと思います。私なんかは人格の根本がふざけ切っているのでこういう三島の作品を面白いと思いつつ、いざその心に同調しようと思ってもできないのです。あまりにも正しすぎて。正しいし面白いから知りたい、でも決して自分の届かない位置にいあるので同調できない。しかし、その「距離」が愛おしかったりします。永遠に届かない幻想のようで。
 少々逸脱しますが、三島が太宰のことを嫌いだと言った理由も分かる気がします。三島は、まさしく「正しい」人です。そして、自分の弱さを克服し、強くなろうと努力するタイプの人間です。しかし一方、太宰は、己の弱さをさらけ出す人間です。ルサンチマンと言いましょうか、そういうものの極致にいるのが太宰です。

 面白そうな記事があったので、時間がある方はぜひこちらも見てみてください。私はこの記事好きすぎて午前二時に発狂してしまいました。

 

三島由紀夫に「嫌い」と言われ、太宰治が「笑った」訳 太宰治が『走れメロス』と相反するような人間性であったことを前記事では解説した。だがむしろ当時の文豪でもっとも『走れメロス』 toyokeizai.net  
 

 話を戻します。『不道徳教育講座』は、世間で不道徳だと言われていることについて、その効能やらなんやらを三島が書いている作品です。例えば、「教師を内心バカにすべし」「大いにウソをつくべし」「女から金を搾取すべし」など、世間的には良くない行動ですが、それらの良さについてずばずば書いているので見ていて面白い。もちろん普通に不愉快で気に食わないものもいっぱいありますが。
 この作品の中にある笑いの観念の中に、「笑いというのは全て齟齬から生まれるんだ」というものがあるのですが、これは私の中にある、笑いについての考え方の大きな軸になっています。そこと悪口の関係も中々考察しがいがあるので、いつか言語化してやろうと思っています。
 

太宰治太宰治全集5』ちくま文庫

 持っている太宰の全集の中で唯一実家にあったやつです。なぜ実家に置いておいたかというと、中に収録されている話の中で「水仙」と「正義と微笑」しか面白くないからです。でも、先日唐突に「水仙」を読みたくなったけど手元になく歯痒い思いをしたので持って帰ろうと思います。

 収録されている中に『待つ』という短編があるのですが、これは思い出深いです。大学三年の頃の授業でこの『待つ』を研究発表する機会があったため、めちゃくちゃ読み込んだからです。最初読んだ時は何とも思わなかったのですが、今振り返って読んでみると胸を打たれるものがあります。この作品は、戦争という時流に流され自身の作品が評価されない時代が続いた太宰が、いつの日にか世の中が変わって自分が認められる日が来ればいい、そんな世の中の到来を望んでいる、という太宰の気持ちが表れた作品とされています。私はこの「世の中の変貌への希望」というのが後の『斜陽』や『おさん』などにあらわれる革命思想へと繋がってくるのではないかと睨んでいるのですが、定かではありません。それは置いておくにしても、この短編はとても良いと思います。何かにもがき苦しみながらも、それでも希望を捨てずに明日へ未来へ思いを馳せる…………。『待つ』を研究する中で、「待っている」というのは受動的な選択に見えて、「待っている」という行動を選択している、つまり能動的な行動なのだという論文なんかも見かけたりしましたが、まさにその通りかもしれません。皆人生に苦しみながらも、希望を捨てずに「いつか」を願いながら日々生きているのだから。

 あと、久しぶりに「正義と微笑」を見たら、「人間は、十六歳とニ十歳までの間にその人格が作られると、ルソオだか誰だか言っていたそうだが」という一節があり、普通にクリティカルヒットして死にました。なぜなら、先日久しぶりに中高の同窓会に行ったのですが、そこでちょうど高校できちんとした人生を送れていなかったことが今現在にも影響を及ぼしていることを痛烈に自覚させられおっぱっぴー状態だったからです。あともう一つ言うと、「お道化を演じて、人に可愛がられる、あの淋しさ、たまらない。空虚だ。人間は、もっと真面目に生きなければならぬものである。」も身に覚えがありすぎて「あ~~~~~~~~~~~~~」と心の中で叫んでました。高校の頃は友達が多く好かれていたのですが、それらは全部虚構の自分への思慕だと気づいた時から私の人生は始まったと言っても過言ではありません。皆さんも演じすぎには注意です。まじで。

 

芥川龍之介或阿呆の一生侏儒の言葉』角川文庫

 これまた作品集です。収録されている作品の中では、『歯車』『或阿呆の一生』『侏儒の言葉』などが好きです。ただ、『侏儒の言葉』は難しいので「おっもしれーーー」と刺さるものもあれば、「わっかんねーーー」となるやつもあります。というか七割くらい「わっかんねーーー」に分類されます。
 私は私小説チックなものが好きなので『歯車』『或阿呆の一生』辺りは好きなのですが、今読んでみたらびっくりするくらいつまらなくてびっくりしてしまいました。二つの意味でびっくりです。この二作品は大学1,2年生の頃にハマっていたのですがコロナで病んでたからハマっていたのかもしれませんね。

 

プルースト失われた時を求めて岩波文庫

 何も読んでいません。三年の頃に取ってた仏文の授業で「これは授業で使うので買ってください~~~」と言われたので仕方なく買ったのですが、後日先生から「二冊買ってもらったけど一冊だけで十分だった~~~~」と言われぶん殴ろうかと思った思い出があります。金返せよ。
 まあそれは置いておくにしても、基本的に私は外国文学が好きではありません。じゃあ仏文の授業なんか取るなよと言われそうですが、シラバスに載ってるのを見るとなんか面白そうに見えて受講しちゃっただけです。外国文学の何がいけないって、翻訳で読む場合、言語の違いによる「日本語で書かれてるけど日本語じゃない」という感覚が凄まじいノイズになるからです。これは仕方のないことなのですが、日本語で書かれていないものを日本語で書き直そうとすると、どうしても日本語的でない語彙の使いまわしや表現になりますよね? 私はそれが本当に嫌いなんです。だから外国の作家の作品は意図的に避けています。例外的に、尹東柱という詩人の作品は好んで読みますが。

 

江戸川乱歩人間椅子角川ホラー文庫

 私が近現代の作家にハマるきっかけとなった本です。特に表題作の『人間椅子』は本当に傑作です。初めて本を読んで「恐怖」を感じました。心臓がバクバクするような、手が震えるような、心の底から怖いと思う体験をまさか本でするとは思わなかったです。それまでにも映像作品に恐怖を感じることはありましたが、あれは音や光や演出など、視覚や聴覚をフルに使って感情を刺激するのでまだ分かるのですが、本は文字情報しかないのでそこまでの恐ろしさを表現しえないだろうと思っていたら、乱歩は普通にそれをしてきました。末恐ろしいですね。ほんっっっっっとうに乱歩は恐怖を書き立てる描写が上手いです。あとは奇怪な世界観を表現する力もずば抜けています。乱歩が好きだという方はぜひお友達になりましょう。

 

おわり

今回はなんか実家にあった本を適当に数冊読んで感想を述べてみました。しかし皆さんお気づきかもしれませんが、上記に挙げた大体の本が「綺麗」です。そうです。実はちゃんと本を読みこんでいないのです。2024年はもうちょっと頑張って本読みたいですね。というか卒論あるからちゃんと読まないといけないのか。

*1:記事執筆は1月1日。おめでたいと言いたいところだが、地震のせいで何もめでたくなくなってしまった

今年読んだベスト3

こんにちは、イシです。2023年ももうすぐ終わりますね。

そこで、今年読んだ本の中で印象に残っている3冊を紹介したいと思います。(今年発売というくくりではありません)。

 

同志少女よ、敵を討て(逢坂冬馬)

なんと刊行は2021年。実は刊行されて新刊のブースに並んでいるのを見て、衝動的に買った1作なのですが、実は今年読みました。不本意にも寝かされていた理由は、自分が普段、喫茶店など外で本を読むことが多いため単行本サイズは持ち運びにくいというもの。それが、ある読書好きの人と話していたときに「あの本読んだ?」みたいに聞かれて、「積ん読状態なんですよね」と答えたら、「感想教えて」って言われたのが読んだきっかけです。もともと読もうとしていた予定に割り込む形で読んだことを覚えています。

内容は衝動買いしただけあって僕好みでしたね。表面で書かれるのが歴史だとしたら、裏側を描くのが文学。歴史という抽象的な面は習っても、そのときの個人の感情は教えてくれない。教えられたとしても、それはつらい経験をした人のうちの多数派の意見。マイノリティのマイノリティの悲劇には誰もスポットを当てない。そんな暗部に光を当てる1作でした。

逃亡者(中村文則

この作品は、今年の九月に文庫版が出版され、それを機に読みました。先ほどの話ともかぶりますが、これも戦争の話です。話の主題は太平洋戦争末期の日本軍を鼓舞した、トランペッター鈴木のトランペットを狙う連中から逃げるというものです。話の中には中村文学らしい不条理な場面とか、人種差別等戦争以外の内容も登場するのですが、僕が特に着目したのはp410~p513の鈴木の手記の部分です。彼は普通の青年でした。音楽を愛し、小さい頃から音楽の教育をされ、特に異国の音楽であるジャズを得意にしていました。彼には想う人もいて、そして想われてもいました。ただ、全てが戦争で壊れ去りました。全てがです。ジャズは軍歌に変わり、戦地での悲惨な状態や非情な命令を目の当たりにし己を失っていきます。明日死ぬかも分からない戦地に自我を保てないものたち。道徳心の欠落。それを見て壊れていく自分自身。私は何者なのか。彼はその気持ちの全てをトランペットにのせて。

あまりにもリアルで人間味のあふれる情動に無量の感を来すことになるでしょう。

鏡の古城(辻村深月

この作品も最初に手に取ったのは発売されて間もない頃です。まだ高校生だった記憶があります。当時はハードカバーのものしか出版されておらず、当時の自分にとっては金額的に躊躇する気持ちがありました。

それが文庫本になって映画化もされて、それからしばらくときがたってから読んだのですが、きっかけ自体は忘れてしまいました。ただ記憶にあるのは、僕自身が精神に関する問題に興味があり、「かがみの孤城」のポスターがゲートキーパー(自殺等を思いとどまれるような最終的な相談窓口というイメージです)とコラボしていたことです。そこから内容に少し察しがついて読み始めました。

少しミステリー調なんですかね。上下巻併せてそれなりに長い作品だったと思うのですが読む手が止められなかったです。少し酷な言い方かもしれませんが、扱っている問題自体は(僕にとっては)既存のもので共感性などもなかったのですが、感動に近い感情の動きによって心を揺さぶられたことを覚えています。この話は途中までがミステリー、最後は感動話といった感じでしょうか。

準グランプリ

ベストスリーには入れなかったものの、僕の読書生活の中で大きく影響を与えた作品を紹介します。感想についてはまたどこかで触れるかもしれないので割愛させていただきます。

 

 

 

 

 

 

作家紹介:松村涼哉

こんにちは、イシです。今回は僕の好きな作家、松村涼哉さんの紹介をしたいと思います。少しでも魅力が伝わればいいなと思っています。全作紹介してもいいのですが、今回は特に僕が好きな作品をセレクトしてお届けします。

作者紹介

松村さんは静岡県浜松市出身の作家さんで、「ただ、それだけでよかったんです」で電撃文庫からデビューし、「十五歳のテロリスト」以降はメディアワークス文庫から出版されています。主人公は基本的に中高生で、そこに取り巻く社会問題を題材に書き上げられた作品が多いです。社会問題というと重苦しいイメージがありますが、そこでミステリーと融合することで、読みやすいテイスティングにされています。ページ数も200ページ程度のものが多く、何度も一気読みさせられている作家さんです。個人的なイメージですが社会問題への興味を持つきっかけとして最適なんじゃないかなと思っています。

十五歳のテロリスト

この作品は彼の代表作といえるのではないでしょうか。少年法を主題にしたミステリーで、だんだん点と点がつながって、全体像が見えていくのがページをめくる手を止めない一方で、十五歳以下の少年により大切な人を殺された遺族の気持ちはどうすればいいのかについて踏み込まれています。

少年法により十五歳に満たない犯罪者は罪に問えず、また実名報道もされない。反対に被害者の方は実名で報道される。この制度によってやるせない気持ちを抱えた被害者少年と記者。無念を晴らすためにどうすればよいのか問いかける1作です。

 

ただ、それだけでよかったんです

この作品は彼のデビュー作です。中学校のあるクラスを舞台としたいじめとスクールカーストを主題にした1作です。語ってしまうとネタバレになってしまうのであまりいえませんが、今の常識は数十ページ後には裏切られているといった感覚の続く作品です。表面上に見えていることだけが真実ではない。本当の悪は誰(何)なのか。そんな問いかけのある1作です。

監獄に生きる君たちへ

この小説はミステリー×児童相談所問題の作品になります。この作品は「私を殺した犯人を暴け」という手紙が事故死したはずの女性から届くところから始まります。同じ手紙を受け取った高校生たちが過去に彼女に旅行で連れられてきて、監禁されて・・・。その監禁を解くためにそれぞれが自分の過去と、事件当日の話を独白する展開で話が進みます。それぞれの背後にある問題と、転々とする犯人像。彼女の企画した旅行の真の目的とは。児相の抱える問題を少年少女の視点で捉えたミステリーです。

犯人は僕だけが知っている

ミステリー×排除型社会の作品です。排除型社会とは簡単に言うと、「私は正しい。私の考えにそぐわないあいつの考えは間違っている」という感じに自分と相手の間に線を引き相手を遠ざける社会状態です。ジョック・ヤングの「排除型社会」を参照にしていて問題への導入本としていい本だと思います。この作品では噂がターゲットになっています。証拠もない「私はこう聞いたんだから」、「私が見たこの光景はこの事件にこうしてつながっているに違いない」という言葉。それを「そんなこと言って、全然事件が見えていないな」と遠目で嘲う輩。きっとこの空気感に嫌気がさして客観的に物事を見るようになるはずです。

この作品では他の社会問題も取り上げていますが、それは読んでからのお楽しみということで。

暗闇の非行少年たち

この作品はミステリー×非行少年です。まあ、タイトル通りと言えばタイトル通りですね。過去に家庭の事情だったり、自分の境遇だったりで事件を起こして少年院に入り、退院した少年少女。退院したものの前を向けずにまた闇の方へ向かおうとする彼女たちはふとしたことでVR空間で会うことになる。VR空間の中で少しずつ更生していく彼女たち。そして、悪の生活に戻そうとする現実世界の人間関係。葛藤を抱えながらも少しずつ自分の意志を持っていき生きようとする姿に、ポジティブさを感じられる1作です。

また、この作品は名古屋が舞台となっていて、市内の地名もいろいろと出てきていたので、光景が想像しやすくてリアリティが高かったです。

エピローグ

全作品ではないですが、何冊か紹介させてもらいました。難しい話題を扱っているのですが、ミステリー調で読み手を飽きさせない文章術を武器に書かれていて、おすすめの作家さんです。最近では、毎年12月25日に新刊が発売されています。粋なクリスマスプレゼントです。あと1週間、楽しみですね。

”物語を書く”とはどんな行為なのか

There are three rules for writing a novel.

Unfortunately, no one knows what they are.

Somerset Maugham (1874~1965)

(物語を書くためのルールが3つある。

残念なことに誰もそれが何だかを知らない。)

 

この記事は「”物語を読む”とはどんな行為なのか(前編)(後編)」と蜜に絡んでいる。故に、正しく理解してもらうためにも、より深く納得してもらうためにも、この2作を読んでから、こちらを読み始めて欲しい。

meidaidokusyo.hatenablog.com

meidaidokusyo.hatenablog.com

それでは、後編まで読んだという体で話を進めていこう。

まず、前編を整理すると、文章を書くとは神の視点に立つことになる。この表現は他の方もよく使われるのだが、自分の場合は絶対神唯一神というニュアンスがさらに含まれる。追記した理由としては、宗教の絡んだ小説を理解深く包含するためである。

例としてアンドレ・ジッドの「狭き門」を挙げる。この話のあらすじとしては、主人公のジェロームが、従姉のアリサに好意を持ち、二人は相思相愛の状態であった。アリサの妹のジュリエットもジェロームのことが好きであったが、周囲とともに姉のことを応援していた。しかし、神の国に興味を持つアリサは”狭き門”を通過するためには地上での幸福を捨てる必要があり、ついには結婚を諦めて一人で命を落としてしまう。

この作品はキリスト教の神が全面的に描かれた作品で、単に神の視点と書いてしまうとアリサが信仰していたキリスト教の神の視点になってしまい、自分の見解と合わない。

つまり、神すらも思いのままに操る神(それをなんと呼ぶのだろうか)に作者はなっているのである。

 

ちなみに、私が物語を書くときは、登場人物や設定とある程度のテーマだけを決めて、脳内に創作した登場人物を遊ばせているのを書き留めていることが多い。個人的には作品の不自然さを排除でき、一貫性があり人間味あるストーリーができるのでよく用いている。そして、神の立場で書いていることを自覚している。

 

そして、後編の方では、人々の心の中にあるものを明文化し、広く長期的に流布できるような形にすることであると考えることができる。

こちらも例を挙げよう。シュロモ・ヴェネチアの「私はガス室で『特殊任務』をしていた」を紹介させてもらう。この話はノンフィクションで、第二次世界大戦中にホロコーストによって強制収容所に送られ、そこで毒ガスにより命を落とした人から、服や金歯、銀歯などの金になりそうなものを剥ぎ、遺体を埋める作業をさせられていたユダヤ人の話である。この話は対談を文書化したもので、まさに心の中を本にしたものといえる。(僕の感覚としては、対談ではなく物語として話が入ってきた感覚であった)。

この話はノンフィクションだが、フィクションを書く作家でも、似たようなことをしていると感じる。例えば、自身の興味あることについて本や取材を通して学習し、それを自分の中で昇華させて物語を紡ぐといった具合に。私も書きたい内容の主題に近い部分はそうなりがちな気がする。

 

この2点をまとめると、絶対神という自身の感性の具現化によって物語は書かれているといえる。最初の引用に戻ろう。モームによると物語を書くときのルールが3つあり、それはわからないという。それは当然のことであろう。なぜなら物語とは絶対神である作者の制御下に置かれていて、神としてルールを決める立場になる作家の感性は人それぞれなのだから。わからないというよりは共通解を見つけるのが極めて難解であるという表現のが近いのだろう。

 

ここまで読んできてどう感じただろうか。普段、何気なく行っている、物語を読む、書くという行為について考え直すことは非常に面白いことであると感じている。

読者の皆さんももう一度これらの行為について向き合ってみることをおすすめする。きっと貴重な出会いや気づきがあるはずだ。

文責:イシ

”物語を読む”とはどんな行為なのか(後編)

I am a part of everything that I have read.

Theodore Roosevelt (1858~1919)

(私は私が今までに読んできたものの一部である。)

 

ここからは”物語を読む”という行為について前編とは別の視点で考えていきたいと思う。後編だけでも簡潔はしているが、ぜひとも前編を読んでから読んでいただきたい。(作者はその意図でこの順に執筆している)。

meidaidokusyo.hatenablog.com

今回の記事は前回よりは脅迫的で強引な記事ではないと思う。なぜなら、比較的引用元がはっきりしていて、創造に易いからだ。ただ、こうして記事を書いている以上、多少の主観は混じることは了承いただきたい。

 

この記事はレイ・ブラッドベリ華氏451度をベースに書いていこうと思う。未読の方に向けて簡単にあらすじを紹介する。(書きたい内容の特性上、ネタバレも含んでしまうのは申し訳ない)。

近未来に建物は完全な防火性を手に入れ消防士という職業は不要になり、代わりに昇火士という職業が生まれた。この世界では本を持つことは犯罪であり、通報を受けたら昇火士は本を燃やして処分していた。昇火士の主人公は仕事をしながらも、なぜ本は禁じられないといけないのか疑問に思っていた。上司曰く、「本は何も言っていない」、そいて白人は「アンクルトムの小屋」を嫌がり、黒人は「ちびくろサンボ」を好まない。だから抗争になる前にそんな本を排除してしまえと説く。そんな彼は、かなり紆余曲折あって、本を識る人たちに出会うのである。ただし、彼らは本を持っている訳ではない。それぞれが本を諳んじることができるのである。

 

こんな話もある。少し憶測が混じるのだが(そもそも事実を記すのが困難であったため、確たる根拠を見つけられなかった)、潜伏キリシタンの話である。江戸時代初期、江戸幕府鎖国をし、踏絵キリスト教を弾圧したのは歴史の授業でも習ったのではないだろうか。島原の乱など潜伏キリシタンの歴史の有名部分は初期に偏っているだろう。しかしながら、潜伏キリシタンの歴史はそこにとどまらない。禁教の中でキリスト教の教えを守り抜いた人々がいるのだ。そんな彼らは、鎖国が解け、プティジャンに発見されるまで潜伏し続けたのである。書に残していたならば、きっと役人に見つけられてしまう。だからこそ人々は細々と口伝し続けたのではないかと想像する。

余談ではあるが、発見をきっかけに名乗り出るものも現れたが、当時はキリスト教は禁教だったため聖職者や信者は拷問を受けたり、流罪になったりした。それがキリスト教を国教とするヨーロッパやアメリカに伝わり、非難を受けて解禁へとつながったのである。

 

さて、この2つの共通点がおわかりだろうか。それはそこに書物がなくとも物語はあるという事実である。(聖書を物語と呼ぶかは難しいところだが、華氏451度でも書物の中に聖書は登場した)。そしてここで、冒頭の引用文を使いたい。本という物理的媒体がなくても、本を読むことで自分自身の中に物語が存在するようになるのである。つまり、人間は本棚であり、読むという行為はそこに陳列することに等しい。

また、”物語を読む”ということをこのように考えていくと読み聞かせも読書と同じなのではないだろうか。さらには神話や伝承も。

もともと神話などは口伝から始まり、一貫性を持たせるために本という媒体を借り、後の人間に読ませた。本は不変であり、一度書けば何代先までも伝わるので便利なのである。また、聖書などを例に挙げても広く普及させるのにも都合がよかった。

 

これまでの話を総括すると、”物語を読む”ということは物理的媒体を読み、物体から切り離して、自分の中の一部にすることである。また、その逆をすることもでき、そこには双方向関係が成り立っていると考えることができる。

逆についての話は、次回のブログ、「”物語を書く”とはどんな行為なのか」にて触れていきたいと思う。また次回会えることを期待している。

文責:イシ

さあ、今から議論をしよう:オメラスから歩み去る人々編

今回は以前の読書会で扱った、「オメラスから歩み去る人々」について読書会では扱わなかった疑問提起をしたいと思う。

 

あらすじ

オメラスという幸福な街がある。何一つ不満もなく、皆が幸せに暮らしている。しかしながらこのオメラスの幸福な秩序を保つためには、ある地下牢に閉じ込められ虐待されている知的障害の子供の存在が必要不可欠である。彼をそこから解放すればオメラスは不幸になってしまうと誰もが知っている。この地下牢の存在は分別のついた10歳頃に子供に説明される。あるものは彼のために何かできないかと言い、ある者は泣き叫ぶ。そして、それから数日もしくは数年の後に彼らは一人でオメラスから歩み去る。

この話はマイケルサンデルの「これからの『正義』の話をしよう」でも引用されていた。

 

読書会のお題

読書会のお題は次のようだった。

・あなたは子供の犠牲を知った状態で、オメラスに残るか
・オメラスから歩み去る人々はどこへ行くのか
・「これからの『正義』の話をしよう」ではベンサムの合理主義への反論として挙げられた。功利主義の正義性について考えてみよう。
・この物語は現在の象徴天皇制に近い。象徴的天皇は必要か。
・見方によっては障害者を隔離して健常者の生活に介入させないことによってオメラスの幸福を保っている。このことが許せるか。

当日はこれについて議論を行った。(お題が多かったのであまり進まなかった)

ただ、私が提起したいのは以下の問いである。

新しい問題提起

犠牲の子供の幸福状態と街全体の幸福状態が反比例の関係にあるものとする。つまり地下牢から解放しただけではオメラスの幸福が終わるわけではない。ただ、モップから離れることができ、衛生環境、開放感などの点から、少しだけ子供は幸福になり、街は不幸になる。

オメラスの人々は子供の身体を綺麗にしてやることも、衣食住を提供する権利もある。しかし、子供に尽くせば街は、自分は不幸になる。あなたはそうするだろうか?
(子供に尽くしたところで、過去のトラウマなどから、不幸に囚われ続けたままかもしれない。その場合、オメラスは不幸にならない)
また、その行為をオメラスの第三者の立場で見るとすると、手助けする、傍観する、妨害するの3つの選択肢がある。あなたはどれを選ぶだろうか?

そして、ある人が子供の面倒などをみてある程度幸せになり、オメラスはそれなりに不幸な街になったとしよう。そのときあなたは子供をいじめることで不幸にさせ、街の幸福度を、自分の幸福度を上げることができるが、そうするだろうか?
また、そうしている人がいたとしてあなたは、加担、静観、阻止いずれの行動に出るか?

一般的に考えると、個人の思惟がぶつかり合って、オメラスの人々全員が1パターンの行動を取るとは考え難い。詰まるところ子供の扱いを巡った闘争になってしまう。
それを阻止するために「子供の幸福度を決める議会」ができたとしよう。この議会は他人の幸福度を決めるという点で正当なのだろうか?また、この議会に子供は隣席させるべきか?さらには発言権を持たせるべきか?

 

さて、あなたはどう考えるだろうか。

文責:イシ